2020年11月法話『快楽(かいらく)と快楽(けらく)』

2020年10月21日

 

 

画.阿 貴志子

快楽(かいらく)と快楽(けらく)

 

 結婚する二人に

「今、どのようなお気持ちですか」

 と聞いたとしたら、十中八九の人は

「とても幸せです」

 と答えるだろう。聞いた方も納得して

「おめでとうございます」

 と言って祝福する。

 この「幸せ」の部分を「快楽」に変えたらどうなるだろうか。

「今、とても快楽を感じております」

 とは言わない。ここに幸せ感と快楽のちがいがある。快楽は五感の満足度をあらわすことばだからだ。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などが充足すると快楽を感じる。そのためにさまざまな職業が発達し、私たちの心を満たしてくれている。

 哲学においても、人生の目的は快楽を追求することであり、それを達成させるためには道徳的生活をすることであるとする快楽主義の哲学もある。

 こうなると、快楽は高度なものになるが、それでも五感の満足を抜きにした快楽はあり得ない。

 さて、この快楽(かいらく)だが、仏教語では(けらく)と読み、意味もまったく異なる。

『無量寿経』で

「彼の仏国土は清浄安穏にして微妙快楽なり」と説いている。阿弥陀如来の極楽浄土は清浄安穏だから快楽(けらく)を得ることができると言うのである。また、平安時代の恵心僧都は『往生要集』の中で極楽浄土には「十楽」という十種類の楽しみがあって、その中のひとつに「快楽不退(けらくふたい)の楽」があると言っている。「快楽不退」とは、永遠に尽きることのない楽しみということだ。楽しみも尽きることがあれば苦になるから、尽きることがないのが楽の条件である。そして、この世で味わう四苦八苦がない。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、憎らしい人と会わねばならない苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、煩悩に苛(さいな)まれる苦しみ、これらを四苦八苦というが、この場合の苦は苦痛の苦というよりは、思い通りにいかない悩みと理解した方がよい。そのような苦しみが極楽浄土には存在しないという。

 生老病死がないのだから、いたって安心ではないか。入院することもなく老人ぼけになることもなく、死にもしないのだから、愛する人と死別する心配もない。まして、浄土なのだから憎たらしい奴なんていない。浄土は心の清らかな人の世界だ。快楽不退の快楽(けらく)は清浄な浄土で味わえるよろこびなのだ。この世ではとても味わうことはできない。ならば、急ぎ往くか。どうする?

 もう少しこの世の快楽(かいらく)を味わってからにしよう。(阿 純孝)



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