2020年2月法話『自然(しぜん)と自然(じねん)』

2020年01月25日

画.阿 貴志子

自然(しぜん)と自然(じねん)

 

最近、自然(しぜん)が病んでいるといわれている。その病気の原因は、なんと人間にある。人間の生活がより豊かに、より便利にと願うあまり自然を利用しすぎたからだ。したがって、人は自然に対してもっといつくしみ深く謙虚でなければとだれしもが思ってはいるのだが、タバコ好きと同じく、思っちゃいるけどやめられないのだ。

 ある時、『現代川柳事典』を読んでいたら、こんな川柳に出会った。

 

 愚か人 乗せて地球は耐えている

 人間という害虫がいる地球

 白亜紀の頃の地球に戻さねば

 

読んでなるほどと納得してしまう。がしかし、地球は俺たちのものという意識が依然としてあるから困るのだ。

 ところで、自然とは『国語辞典』によると、「人為によらないでこの世に存在する、全ての現象のこと」

「人為によらない、そのもの本来の状態であること」

「言動にわざとらしさがないこと。ひとでを加えないでひとりでにそうなること」

 とある。人の作為のないところが自然なのだ。

 古代中国の老荘思想では、「無為自然」が最高の境地だと説いている。聖人君主の理想的あり方を示すことばなのだ。つまり、聖人の政治は、命令を下したり、法律で縛ることなどせずにことなきがごとく自然に天下が治まることを意味している。これを日本語で、無為自然(むいしぜん)と読んでいるが、同じ漢字なのに仏教語になると、(むいじねん)と読み意味もちがってしまう。

 『仏教語大事典』によると、

自然(じねん)とは「ニルバーナそのものの現われた境界。さとりの世界はとらわれを離れて空であり、真理そのものとしてそれ自身独立で絶対自由であること」と説明している。自然とはおのずからそうである世界であるから、さとりの世界なのだという。

 また親鸞聖人は『自然法爾章』で自然(じねん)をこう説明している。

 「自然といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむるといふことばなり。しからしむるといふは、行者のはからひにあらず。如来のちかひにてあるがゆえに法爾といふ」

 親鸞聖人が最も大切にしたのは自然法爾の教えであり、自然(じねん)は、行者(念仏者)のはからいを必要としない状態、つまりあるがまま、煩悩具足のままで救われると説いたのである。

 古い日本人は、自然を宗教的精神のあらわれと見ていたのだ。(阿 純孝)



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