2018年3月法話 『いかめしいエンマさま』

2018年02月21日

いかめしいエンマさま

画.阿 貴志子

 

 世界の三大宗教といわれている仏教、キリスト教、イスラム教、いずれの宗教でも死後の世界のことを説いている。どのような死後であるかは、それぞれ異なるが、死んだら終わりではない。

 日本の仏教では、死後四十九日目に来世の往きどころが決まり、そのためのお裁きが初七日忌から七日ごとに執り行われるといわれているが、その中心はなんといっても三十五日目(五七日忌)に開かれるエンマさまのお裁きであろう。それによって、生前の罪があばかれ罰としての来世が決まるということである。

 どのような決め方がなされるかといえば、エンマさまは浄玻璃の鏡を持っておられ、その鏡には、私たちの生前のすべてが記録されている超精密な鏡なのだ。だから、ごまかしや情状酌量の余地はない。私たちにしてみれば、大変困った鏡なのだ。といっても、私たちが生きているうちになした行いのいかんによって来世が決まるのだから、お裁きというより、自業自得というべきだろう。

 とするならば、エンマさまの役割はなんなのだろうか。

 思うに、私たちが生まれて死ぬまでの生活をふり返って反省をうながし、あらためて出直させるためにいかめしいお姿で私たちの前に現れるのだが、そのお気持ちは、罰を科する裁判官というより善に導く教導師である。

 であるから、エンマさまの本来のお姿はお地蔵さまだといわれている。

 私たちはどのような人でもすべて、仏心を秘めて生まれてくる。それを忘れて生き続けている。もったいない生き方をしているので、そのことを気づかせるためにお地蔵さまがいらっしゃり、その変化身としてのエンマさまがいらっしゃるのだろう。

 そのことを私たちは生きているうちに気づくべきなのだ。

 

 千妙寺境内の彼岸花の池の中程に道があり、そこを辿って彼岸(対岸)に到ると、正面にお地蔵さまがお立ちになっていらっしゃる。五七日忌にはお拝りする慣わしになっている。



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