2017年6月法話『少年よ ぼんやり空を観てごらん』

2017年05月28日

画.阿 貴志子

少年よ ぼんやり空を観てごらん

表題の川柳は、小中学校教師の荻原非茶子先生の句です。

「少年よ ぼんやり空を観てごらん」 という句を「現代川柳鑑賞事典」の中で発見した時、ふと、「少年よ 大志を抱け」と教え子たちに告げたクラーク博士のことばが脳裡に浮かびました。それと同時に、もしかしたら、荻原先生は少年たちが大志を抱くことよりも無心に空を観る心のゆとりを持つよう願っていたのではないかと、勝手な想像をしてしまいました。

 勿論、少年が大志を抱いて明日を切り開いていく勇気は、いかにも少年らしく清々しいものですが、サーフィンのように時代の波に乗ることに集中するあまり極端に走ることもあります。

 昭和の太平洋戦争の最中、少年が抱いた大志は”兵隊さんになる”ことでした。その当時の日本は、力強く他国に攻め入り、戦艦大和を造り、大日本国建設に邁進しましたが、やがて、国敗れて生活の基盤さえ壊滅した状態をあじわいました。

 高見順は、敗戦後の日本について『敗戦日記』でこう述べています。

 「…東京駅で中年の男が歩廊に眼をキョロキョロやって、煙草の吸い殻を探して拾っているのを見かけた。

 戦前にはなかったことだ。乞食が木片や吸い殻を拾うのは戦前でもあったが、乞食ではない者が乞食のようなことをするに至ったのは最近の現象だ。そうだ、もう乞食だ。国民の大半は現実的に精神的に乞食におちている。敗戦ということが心にしみる。」(原文のまま)

 このことは事実でした。だから、その後の日本は経済復興に力を入れ、ガムシャラに働きました。戦争中に唱えられた「月月火水木金金」は戦後も続き、土日の休みもなく働き、経済的には豊かになりましたが、その陰ではげしい経済戦争という新たなる戦いが始まりました。としたならば、はたしてどのような「大志」を抱けばよいのでしょうか。

 そんな時、荻原先生の句のごとく

 「少年よ ぼんやり空を観てごらん」

 と、のんびりと空を観る心境になることも必要なのだと思います。

 この句の中で先生は、「見てごらん」ではなく「観てごらん」といって、「観」の字を当てています。

 「観」とは、仏教の教えによれば、心静かな清浄な境地で、世界のありのままを正しくながめること、あるいは、ものごとの本質を偏見なく見とおすこと、という意味ですから。仏教でいう「観」と合わせて、この句を味わってみたくなりました。



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