2016年11月法話『我慢』

2016年10月27日
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画.阿 貴志子

我  慢

 話芸の達人といわれた落語家古今亭志ん生師匠の″語り〟を本にした『びんぼう自慢』の中で、師匠は、こんなことを話しています。

「話し方がうめえのうまかねえとか、ひとのやっているのを聞いて、そういうことをいうについちゃ、別にものさしがあるわけじゃありませんが、ひとのはなし聞いてみて、『こいつぁ、俺よりまずいな』と思ったら、まず自分と同じくらいの芸ですよ。『俺と同じくれえかな』と思うときは、向こうの方がちょっと上で、『こいつぁ、おれよりたしかにうめえや』と、感心したひにゃ、そりゃもう格段のひらきがあるんですよ」と。

 さすがに名人といわれる人は、語り口が味わい深くて、ついつい引き込まれてしまいます。師匠は、話芸の優劣を他の芸人と比較すると、どうしても自己可愛さが出てしまうと素直に語っていますが、それは,芸界ばかりではなく、万人に共通する感情なのでしょう。

 これはまさに、仏教でいう「慢」のことです。仏教が説く「慢」は、分析すると七つあるといっていますが、要するに、自分と他人とを比較すると、「私はあなたより優れている」と妄想し、相手を侮り自己に執着する心のことです。自己採点が甘くなるのです。

 この心を改めないで仏道修行をしようとすると、「我慢」「増上慢」になって、道を誤ると説いています。通常、私たちが使っている「我慢」は、「この子は我慢強い子だ」とか、「よく我慢したね」とか言うように、忍耐力があるという意味で使われています。つまり、大変なほめ言葉です。

ところが、仏教でいう「我慢」は、そうではありません。

 この世のあらゆる存在は、移り変わりして、諸行無常であるのに、自分には永遠不変なものがある。つまり、本来無我であるのに「我」があるとする偏見を「我慢」というのです。

 また、「増上慢」とは、いまだ悟りの境地に達していないのに、「私は悟りの境地を得た」と自慢し、他を侮ることを意味します。現代では、努力もせず実力もないのに空威張りする人を「増上慢な奴だ」と批判したりします。

 「慢」とは、自己を制御できないときにあらわれるのでしょう。



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