2021年10月法話『初会(しょかい)と初会(しょえ)』

2021年09月18日

画.阿 貴志子

初会(しょかい)と初会(しょえ)

 

 初めて会うことを初会(しょかい)と言い、次に会えば再会だ。その再開をかさねているうちに彼と彼女であれば、別れがたくなり、結婚ということにもなるだろう。

 そもそも初会という出会いがなかったならば家庭を築くこともあり得ないのだから、よくよくふり返って見れば、不思議な縁を感じる。何かの集まりにどちらかが行かなければ初会もないのだから、人生だって変わる。

 まさに「縁は異なもの味なもの」である。

 また、花柳界では、初めての客のことを初会(しょかい)といったり、初顔という。一見(いちげん)さんのことだ。

 さて、仏教では、初会(しょかい)を(しょえ)と読む。

 釈尊の最初の説法という意味になる。

 釈尊が悟りを開かれたのは十二月八日、明けの明星が輝く時だと伝えられている。

 四苦八苦のこの世の苦しみから解脱して、さわやかな最高の境地に至り着いたのだから、釈尊はその時、達成感に満たされて充実の直中におられた。また一方、天界の神・梵天は別のことを考えていた。

 釈尊が悟られた法を他に伝えることをなさなかったならば、悟った真理の法は釈尊一代で消える。そうなってよいのか。

 そう心配した梵天は法を説くよう釈尊に懇請した。これを「梵天懇請」という。

 釈尊は法を説くことを出し惜しみしたわけではない。釈尊が悟った法は人に伝え難いからだ。伝達方法には言語がある。しかし、言語で表現できないとしたら伝えようがない。あるいは、「以心伝心」という伝え方もあるが、これは同レベルでなければ、伝わりっこない。高度な内容になると、人に伝えることはむずかしいのだ。

 しかし、釈尊は誤解を恐れず法を説くことを決心して、昔いっしょに修行した五人の修行者がいるベナレスの鹿野苑に行き、初めて説法を試みた、彼等は導かれて弟子になった。これを「初会」(しょえ)と言い、「初転法輪」と言う。

 車の輪が回転して前に進がごとく、説法によって精神が前に進むからだ。

 「初会」(しょえ)がなかったならば、仏教は伝わらなかったであろう。

                              阿 純孝



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