2020年5月法話『有為(ゆうい)と有為(うい)』

2020年04月21日

画.阿 貴志子

有為(ゆうい)と有為(うい)

 

 「日本語はとてもむずかしいですね」

 と、日本語を学んでいる外国人によくいわれる。

「どこがですか」

 と聞くと、

「同じ漢字なのに読み方によって意味がちがうからです」

 との返事。

 なるほど、そう言われるともっともだと思う。

 たとえば有為。

 有為を(ゆうい)と読めば、社会に役立ち才能があるという意味になる。

「彼は有為(ゆうい)な人材だ」といえば、社会的に役立つ人材のことである。

 ところが、この有為(ゆうい)を(うい)と読んだらどういう意味になるのだろうか。

 (うい)と読む有為は、だれでもが知っている実に親しいことばなのだ。つまり、「いろはにほへと‐‐」の中にある。この「いろは」は日本語の平仮名表記の基礎であり、小学校低学年で学ぶ国語の初歩である。

「いろはのいの字も知らないで‐‐」というセリフがあるぐらい知っていなければならない日本語なのである。

 であるのに、ことばで諳んじることはできても、その中に込められた意味を知る人は少ない。

 さて、その「いろは」だが、仏教経典の『大般涅槃経聖行品』の無常偈の和訳なのだ。しかも、散文ではなく美しい和歌で日本語表記四十七文字が重なることなく配列した巧み技には驚嘆する。思想的にも文学的にも真美豊かな文字表記は外国語にはないと思う。日本の誇りなのだ。

 とにかく、涅槃経を和歌で和訳した「いろは歌」を見てみよう。

 

  色は匂へと 散りぬるを

  我か世誰そ常ならむ

  有為(うい)の奥山今日(けふ)越えて

  浅き夢見し酔ひもせす

           (濁点は付けない)

 

 歌中に「有為の奥山」とある。

 有為とは、私たちが生死しているこの世の中のことだが、仏教では迷いの世界だと見るのである。この世は先き行き不安定で暗迷な世界なのだ。「有為転変」ということばが示す通り絶え間なく転変するのだが、生ずる中に滅する要素を含んでいるのだから、苦を伴う。この世は四苦八苦の世界であると仏教では説くが、そこから容易に抜け出せないのがこの世の習いだ。そのありさまを出口が見出せない奥山にたとえて、「有為の奥山」と詠ったのである。

 だが、その迷いの世界を越えることができたなら、悟りの世界に到り、真の平安な境地を得ることができる。その心境を歌ったのが「いろは歌」である。

 「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」

 という境地にたどり着いたのである。

 この文を解釈すれば

 「迷いから目覚めて見れば、あの迷いの世界は眠りの中で夢を見ることがごとく仮りの世界、酒に酔いしれているようなものだ。覚悟した境地に到り着いた今、浅き夢も見ることはないし、酔いしれて正気を失うこともない」

 ということだろう。

「いろは歌」は悟りの心境を歌に託したのである。その元の涅槃経・無常偈はこうである。

 

  諸行は無常なり

  是れ生滅の法なり

  生滅滅し己(おわ)りて

  寂滅を楽と為す

 

 この無常偈といろは歌をかさね合わせて見たならば、日本人の心の歴史がわかるのではないだろうか。 (阿 純孝)



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