2018年10月法話 『盲亀浮木ということ』

2018年09月25日

盲亀浮木ということ

 

 太平洋よりももっと広大な大海原があったとしよう。海の深さは千メートルもある。そんな深い海の底に盲目の亀が住んでいた。亀は百年に一度だけ海面に首を出すことが許されていた。海面には板切れが漂っていた。その板の真中に亀の首が入るほどの穴が開いていた。

 さて、百年に一度だけ海面に首を出すことができる盲目の亀が首尾よく板の穴に首を差し込むことができるであろうか。

 不可能とは言わない。万が一なのか、何百億分の一なのか、可能性はあるのだが、とてもむずかしい。これを「盲亀浮木」のたとえと言っている。「有り難い」(あることがむずかしい)ということばはこのたとえに由来すると言われている。あり得ないことが実現したら、こんなうれしいことはない。だから、「ありがとう」という感謝の意を表すことばにもなった。

 このたとえは何を意味しているのだろうか。

 実は、人間として生まれることはそれほどむずかしい、であるのに人として生まれることができたのだから、こんなにありがたいことはないという感謝の意味も含まれている。

 私たちは、今、人間として何気なく当たり前のように生きている。何の不思議さも感じていない。しかし、このたとえによれば、人間として生まれることは稀有な、有り難いことが有り得たという意味になる。

 ということを踏まえて見るならば、

 「人間に生まるること大いなるよろこびなり」と思えるではないか。



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