2018年7月法話 『季節を忘れず花は咲く』

2018年06月19日

画.阿 貴志子

季節を忘れず花は咲く

 

 梅、桃、桜が散るとチューウリップ。それが終わればバラ、ツツジ。あじさい過ぎれば露草、ひまわり。忘れていました椿の花。

 気づいたままに書きつらねただけだが、これだけの花が順序よく季節ごとに咲いたり散ったりする。来る季節過行く季節を彩りよく演出するのがこの花バナである。

 これらの花を眺めていると、釈尊が説かれた因縁の道理が思い浮かぶ。

 この世のすべての現象は因と縁にとって成り立っていると見るのが縁起説なのだ。

 この世に存在するものは存在するだけの理由、つまり、因(原因)と縁(条件)があって出現する。因も縁もなしに存在しえない。存在するにはあらゆる助けが必要である。しかも存在の中に自らを消滅させる働きが潜在しているのだ。だから変化(諸行無常)する。この道理に則って花は季節ごとに咲き、そして散る。季節という条件を抜きにして咲いたり散ったりはしない。季節はずれに咲く異端児的な花もあるが、それでもそれなりの条件があってこそ咲くのである。

 そのようにさまざまな条件をたどっていくならば、はるか彼方の太陽月星などの宇宙的な規模とのつながりを知ることができる。

 

  よく見れば

    ナズナ花咲く垣根かな

 

 という芭蕉の句があるが、ナズナは俗にいうペンペン草のこと。荒れ地にも咲くありふれた花で、〝ペンペン草も生えない〟などと荒れ果てた様子のたとえに使われている不運な花だ。決して名花とはいえない。そんな花が秘やかに垣根に咲いているのを芭蕉は目に留め感動したのがこの句である。

 何気なく咲く小さな花の中に広大な宇宙の働きを感じとったのだろう。しかも、その花は永続的に咲き続けるのではなく、やがて散る。生者必滅はこれもまた縁起の道理なのである。

 種が滅して花が咲く。種が種のままだとしたら花は咲かない。その花もやがて散って種を残す。これが生命あるもののさだめなのだ。

 滅することがあるからこそ「生」が輝き尊く思われるのではないか。

 最近は、「滅」を嫌い忘れようとする傾向がある。だから「生」が粗末になる。滅あってこその生ではないだろうか。

 はかないからこそありがたい



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