2017年8月法話『遠くとも道あり』

2017年07月16日

画. 阿 貴志子

遠くとも道あり

 

   昭和期に活躍し、「アジャパー」という流行語を生みだした喜劇役者の伴淳三郎は、ファンからサインを求められると、「遠くとも道あり」と書いたそうです。その話を聞いて「伴淳三郎の役者人生そのものだなぁ」と思いました。先行きのわからない長い下積み生活をあじわった人ならではのことばです。

 下積みの苦労が長ければ長いほど、目的ははるか彼方に遠退き、これではとても到り着けないと挫折感にさいなまれたり、自己嫌悪に陥ったりしながらも、あきらめきれずにいる時、(たどり着くにはあまりにも遠すぎるけれど、ちゃんと道は続いている)と思えば、歩む力も湧いてくるようです。だから、一歩一歩あゆむことが大切なのでしょう。

 苦労人のことばは、人に寄り添うようにそばにあって心を支えてくれます。そう思った時、「方便」という法華経のことばを思い出しました。

 仏教は、仏の教と書きますが、仏に成るための教えという意味です。つまり、仏に成ることが目標で、凡夫には不可能に近い理想です。「うそも方便」などという使われ方をしていますが、方便の正しい意味は、近づく、あるいは近づけるということで、理想に向かって近づけるための手段とか教化という意味なのです。

 法華経の化城喩品にこのような話があります。

 砂漠と隊商が進んで行く。行けども行けども、砂、砂、砂。隊員は疲れ果て不安になり、こんな苦しい旅ならもとに戻った方がましだと不平たらたらの気持ちになって動こうともしません。そんな様子を知った隊長は、一計を幸じ、砂漠の彼方にまぼろしの城をつくり、

「あそこが目的地だ。もうすぐではないか。」と、勇気づける。隊員は元気を取り戻し、入城して、ホッとする。

 やがて、疲れが癒された頃合いを見計らって、隊長は、「この城よりもっとすばらしい城があるから、そこに行こう」といって隊員をうながす。

 方便とは、そんな手段のことをいうのです。私たちは、仏の境地に到り着くことが目的ですが、とてもはるかな道のりです。ですから、途中でへこたれたり、横道にそれたり、あきらめたり、紆余曲折の連続で断念しそうになりますが、「遠くとも道あり」で、道はあるのですから、歩めば歩んだだけ目標に近づけるのです。ですから、結果が得られなければ無意味だと考えず、一歩の歩みにこそ意義があると思えたら、と思います。



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